ノートン・キャンベルの生い立ち【memo】

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ノートン・キャンベルは生粋の火星人だ。火星で生まれ火星で育った。
ノートンの両親もどちらも火星の埃っぽい空気を吸って生きてきた人間だ。
広い宇宙には底無しに貧しい暮らしをする者など数知れず、そんな人々に比べれば両親たちはまだマシな人生であった筈だが、それでも彼らにとってこの赤い大地での暮らしは決して満足できるものではなかったらしい。
少なくとも母親にとっては。

母親の出身地がどこなのかは知らない。だが成人する頃にはシドニアの中で働いていたという。
母はとびきりの美人だった。美しいブルネットにくっきりとした端正な目鼻立ち。長く濃い睫毛に縁取られた黒い双眸はどこか蠱惑的でもあり、シドニアの鉱夫たちは皆彼女の虜になったという。
シドニアの鉱夫たちが集う酒場でウェイターとして働いていた母は男たちにとってのマドンナだった。彼女がテーブルへ酒を運び疲れた男たちの肩にそっと手を置いて労いの言葉をかければ、男たちは幾らでもチップを支払った。時には夜のサービスをすることなども…あったに違いない。

そうして酒場で出会った数多の男たちの中の一人に父がいた、というわけだ。
父親も他の男たちと同じシドニアの鉱夫。父の父も、そのまた父親も…何代にも渡ってシドニアで石を掘って生きてきた。
別にそんな生き方や鉱夫という仕事を誇りにしていた訳ではない。ただそれ以外の生き方を誰も教えてくれなかったし、知らなかったというだけの事だ。
真面目だけが取り柄のつまらない男だと誰もが思っていたし、父自身も一生涯そう思っていた。
けれど、そんな有りふれたつまらない男を母は選んだ。

最初は確かに多少の愛情はあったのかもしれない。持って生まれた美貌のおかげで誰からも愛され自信に満ち、勝ち気で奔放だった母にとって、誠実であり控えめで物静かな父は、言い寄ってくる他の男たちとはどこか違って見えたのだろう。
気ままな女ほど自分とは正反対な地味な男に惹かれやすい。そして、その愛情の裏には彼に対する邪な期待があった。

美しい自分に絶対的な自信を持つ母は、自身の境遇に納得していなかった。
自分にはもっと相応しい人生がある筈。こんな埃に塗れた惨めな暮らしより、もっと華やかで優雅な生活が…
その憧れはまだ小さかったノートンも度々聞かされたものだった。
きっとそうした憧れや夢を誠実な父ならば叶えてくれるだろうと期待していたのだ。

けれど、その期待は二人が結婚し、ノートンが生まれてからも叶えられることはなかった。
火星で生まれ、鉱夫としての生き方しか教えられなかった父には、それ以外の生き方も火星の外へ出ることすらも到底考えられなかったのだ。

いつしか不甲斐ない夫への愛情や期待は薄れ、とうとう愛想を尽かした母は幼いノートンを置いてシドニアを出ていってしまった。
夫や我が子よりも、自分の夢を選んだのだ。

いなくなった母親の代わりに父によって男手ひとつで育てられたノートンは、結局父もそうであったように父と同じしがない鉱夫となった。
父と息子二人きりなら鉱夫として働いている内は生活に困ることはない。毎日の食事にはありつけるし十分に休める家もある。
けれども、手に入るそれら全ては必要最低限のものでしかなかった。最低限の教育、最低限の食事… これといった娯楽もなく、夢も希望もない。寝て食べて石を掘る…ただそれだけを繰り返す毎日。
自分を捨てた母親に対して恨みや複雑な感情がなかった訳ではないが、ノートンもまた年を重ねるにつれ母の心情を理解できるようになったしまった。
ノートンはその容姿もさることながら、内に秘めた貪欲さや向上心、執着心まで母親に似ていた。

そうして、いつの間にか母親と同じように自分を育ててくれた父を憐れむような目で見るようになっていた、そんな頃、父は呆気なく他界した。
長年火星の赤い土埃を吸い続けてきた肺はボロボロになり、その上妻に逃げられ一人で息子を育てなければならないという精神的な負担もあったのだろう。

火星の地表を形作る岩の粒子は非常に細かく、採掘によって舞い上がった埃は衣服などの繊維は簡単にすり抜け、眼の網膜にまで入り込むという。
それ故、長年採掘業に従事した者の目は赤く染まり、鉱夫である事の証明となる。
ノートンの父も例に漏れず、亡くなったその遺体の悲しい程鮮やかな赤を見て、他の鉱夫たちは皆、嘆き悲しむと共に敬意を込めて労いの言葉を贈っていた。

しかし、息子であるノートンは違った。やっと僅かに赤くなり始めたその目からはほんの少しの涙が溢れただけで、火の中に消えていく父の最後すら逸らされることはなく平然と見送っていた。

父を見送ったその日、ノートンの目に映っていたのは焼かれていく父の遺体ではなく、新しい人生を歩む自分の姿だった。

天涯孤独となったノートンは、父と自身が契約していたダイモス社からの保険金を得て、それを元手にとある計画を実行する。
それはシドニアの住民たちの間で昔から語り継がれる伝説“火星の心臓“を掘り当てるという夢物語のような壮大すぎる計画で、実際、それを実行すると職場の監督官に持ちかけた時には碌に取り合ってもらえなかった。

だがノートンはそれでも諦めず、父が生前密かに調査していた火星の記録とそれを基に自身が計算し割り出した“火星の心臓“が眠っているであろう採掘ポイントについて粘り強く丁寧に説明し、ついに上層部から計画実行の許可を得ることに成功する。

計画の総責任者として指揮をとることになったノートンは、採掘ポイントの事前調査や人員や機材の確保など、あらゆる業務に奔走。
そしてついに念願の決行日… 採掘作業は予定通り順調に進み、採掘機の刃があと少しで”火星の心臓”が眠っているであろう岩盤に届きそうだという、正にその時、予期せぬ大事故が起きてしまう。
ガガーリンに発注して取り寄せた重機の一部が整備不良によって故障し爆発を起こした。
採掘現場はたちまち崩落し、ノートンを含めた作業員たちは暗い洞穴の中に閉じ込められてしまう。
迅速な救助活動によって事故発生の二日後には全員が助け出されたが、殆どの者は重症を負っておりすぐにシドニアの医療施設に搬送された。あと一日…数時間でも救助が遅れていれば助からなかったかもしれないと言われる程の惨状だった。

事故の原因は整備を行ったガガーリンの整備工場と発注を担当したダイモスの社員にあるとして、ノートンが責任を問われることはなかった。むしろ事故に巻き込まれ危うく死ぬ寸前だったノートンは被害者として扱われ、他の作業員たちと同じようにダイモスから多額の慰謝料と賠償金が支払われることになった。
顔面にも大きな火傷痕が残った為エンハンス!での整形手術を勧められたが、その傷は自分が事故の被害者である証拠になるとしてあえて手術は受けなかった。

結局”火星の心臓”を掘り当てるという計画が実現することはなく、同業者からは「所詮、夢物語だ」と笑いものにされるだけで終わってしまった。
しかし結果として多額の慰謝料を受け取ることに成功したノートンは、手に入れたその金を持って生まれ育った火星からついに脱出する。
火星の赤い大地に未練などなかったし、何より事故のトラウマによってシドニアでは暮らせなくなったというのが最大の理由だった。
採掘都市であるシドニアは一日に何回も人為的な粉塵爆発が行われ、その轟音と振動は事故の被害者たちに当時の恐ろしい体験を呼び起こさせる。いくら多額の慰謝料を受け取ったとはいえ、そんな環境で自身のトラウマに震えながら一生を過ごすなんて無理な話だ。

有り金と僅かな思い出の品だけを持ち、生まれ育った火星からついに脱出したノートンは、かつて母が憧れていたコロニー連合の中心地、アルファ・ケンタウリ星系のジェミソンへと向かった。


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